こんにちは、じょぶでございます。
最近、33歳にして自己理解が私のマイブームでございます。
正直過去を振り返ると暗い気持ちになるのでちょっと嫌なのですが…笑
やっぱり歴史から学ばないと、並みになってしまうので…意を決して振り返りしてみたいと思います。
誕生~幼稚園

平成初期に千葉県某所に爆誕。生まれたときから毛量が多く、あだ名は「モンチッチ」(世代が分かる)
父は私が生まれた日に「みかんちゃん」というオレンジの猫のぬいぐるみを買ってくれた。
両親、母方の祖母、二年後に妹が生まれ5人家族。
当時は母は専業主婦、祖母も家にいたため、保育園には行かなかった。
小さい頃の記憶はあまり残ってないが、幼稚園の頃から運動は苦手だったことは覚えている。
四歳からドッジボールが有名な幼稚園に入ったが、いつも砂遊びか、お絵描きをして過ごす。
運動会のかけっこはいつもビリ、だけど必死さはなく母に向かって笑顔で手を振る余裕はある。
母が理由を尋ねると「だって、ぼくが頑張ったら他の子がビリになっちゃうんだよ?」と。
この頃から弁が立つキャラだったらしい。
あと覚えてるのは、送迎バスの隣にいつも座ってくるダウン症の男の子。
何か会話をした記憶はないが、その子のちょっとハチミツっぽい独特の臭いが少し苦手だったのは覚えている。

休日は祖母だけでなく、父方のじーちゃん(埼玉在住)に甘やかされて過ごす。
記憶にないが、入院も経験したらしい。強情で痛み止めの座薬は拒否(のちにイボ痔があったと判明)、点滴の針は抜くなどなかなか問題児だった様子。
退院後だと思うが、自宅で母に傷口の処置をしてもらった記憶は過ごしだけ残っている。
戦隊モノのオーレンジャー、わくわくさん、ビーストウォーズのVHSをよく見ていた。
小学校時代

小学校時代は勉強もスポーツも苦手なリアルのび太くん。
という自己評価だったけど、今思うと勉強は人並だったような気がする。
三月生まれということもあって発育の差が影響していたんじゃないかなって思う。
低学年の頃の学校の思い出はあんまりなし。ジージと毎週末会っていて、そのたびに「ビーストウォーズ」の変形玩具を買ってもらっていた。ほぼコンプしていたので総額いくらだったのかと思うと震える。
変形のギミックはパターンがあるようで、どのおもちゃも取説を見ずにひとりで遊んでいた。私にとってはこれが知育玩具替わりだったように思う。
小学三年生で初めてのクラス替え、友達を作るのはやや苦手だった。
「友達のマネをして仲間に入る」という戦法を身に着け、自分がやりたいことより、友達のやりたいことに合わせるようになる。
しかし、友達のマネをしたことが原因で、別の友達に嫌な思いをさせてしまうこともあった。嫌な思いをした友達は4月生まれで、体格は私より大きかったし、スポーツも得意だった。私は一緒に遊んでいる感覚であったが、彼は表向きは笑っていたが、家では夜な夜な泣いていたらしい。それを聞いたときは驚きと罪悪感でいっぱいになった、親と一緒にその子の家まで菓子折りをもって謝りに行ったことを覚えている。自分の親にも随分落胆や失望の言葉を言われ、あの時の母の顔は忘れられない。
この件がきっかけで親密になり、中学から大学卒業まで、ずっと友達でいてくれたことは私にとって救いだったし、今も感謝している。「じょぶ」というあだ名をつけたのも彼。結婚後に発覚したが、妻の元同僚でもあった。
そして、言葉や表情がすべてではないということをここで学べたのは私にとって大きな出来事であったと思う。
友達に嫌な思いをさせたエピソードなんて胸を張って人に話せるようなことではないが、私の人生においてこの出来事は外せない。
先生から怒られるようになったことも良く覚えている。話している最中に別のことをしてしまったり、問題の趣旨が分からなかったり、ヘアレスミスをしたり。もう少し私のペースに合わせて話してくれる大人(両親含め)がいたら小学校の成績は上がっていたかもしれない。
小学校の6年間を通じて、私にとっては先生は「頼れる大人」というより、極力関わりたくない「高圧的な怖い人」という印象であった。きっと先生にも「授業態度の悪い子供」というふうに映っていたかもしれない。
習い事も色々やらせてもらった。ピアノ、学習塾、英会話、少林拳など。体験教室で水泳、書道、柔道も行ったが性に合わず通わなかった。親には悪いが、この中でやっておいてよかったと思うのはピアノぐらいか。運動が苦手でも音楽は一生ものだと思わせてくれたのはピアノ教室のおかげだ。
水泳はやっておけば良かったと思う。
高学年になって、テレビゲーム(スーファミ、ロクヨンなど)を買ってもらう。この頃初めて友達の家に遊びに行ったりした。
友達と話を合わせるためにバラエティー番組を見るようになる。水10、めちゃイケ、トレビアの泉などなど。
卒業式の時はどうせ中学もほとんど同じメンツと思って、親と一緒にさっさと帰る。
中学時代

私の人生の黄金期。
中学校で急に勉強が得意になり学年上位に。
運動は相変わらず苦手だったが、当時は定期テストの結果が発表されていたため、周りの友達も一目置くようになってくるのを体感し、勉強が自分のアイデンティティとして生きていくことを決意。
私が通う中学校は運動部以外の部活が吹奏楽部だけだったため、必然的に吹奏楽部へ。
ここで女性とつき合う上での心得を学んだように思う。大人数で一つの目標に向かうという経験も悪くなかった。

勉強以外では合唱コンクールの伴奏者、一年生、三年生、あと卒業式で校歌の伴奏をした。
あの人数の前で演奏することは今後ないはず、いい経験だった。三年生の時の曲はピアノの先生に「じょぶくんには難しい曲だと思ったけど、弾けるようになってびっくりした」と言われた。当時から最低限の努力しかしないタイプ、必要に応じて努力するタイプだった様子。何事も一生懸命やらないといけないんだなと思う。
最後の期末試験は確か学年2位。
受験は3校受けた。絶対受かる私立、受かったら嬉しい私立、本命の公立高校。これも最小限。
受かったら嬉しい方の私立は落ちてしまい、周りには「本命より偏差値の低い高校だからレベルを落とした方がいい」と言われたが、本命は変えなかった。
結果的に本命に合格、点数だけ見ると決して悪い方ではなかった。
もちろん楽しい事ばかりではなかった。部活で悩んだり、初めて女性と交際して悩んだり、それなりに思春期らしい3年間だったように思うが、今になって振り返ると、恵まれた友達、家族も健康、金も将来も心配のない、素晴らしい3年間だった。
高校時代

一生懸命頑張って入学した高校。
この高校のウリは自主自立。制服はあるけど着崩しにも寛容だった。学園祭もかなり力が入ってて、高い偏差値のわりに進学率が悪くなるぐらい全力。見返してみてもあんまり自分らしくない。
ここを志願した理由を振り返ってみると、やっぱり周りに褒められたい一心で勉強していたんだなと思う。
合格した段階でゴールを迎えてしまい、その先がイメージ出来ていなかった。今までは何も考えなくても勉強だけしていれば周りはついてきてくれたから。
定年後の中年男性の「ミッドライフクライシス」のような状態であったと考える。
入学して初めての中間試験、中学時代同様一生懸命勉強した。確か平均点は7割ぐらいだったかと思う。そして順位はちょうど真ん中の100番ぐらい。偏差値70近い学校でこれなら上等だと今の私なら言えるだろう。
しかし、当時の自分には勉強しかないと思って一生懸命頑張った結果、上位に食い込むことが出来なかったのは非常にショックだった。勉強は並み、運動は底、私にとってこれは耐えがたい苦痛だった。お前は何者でもないと言われたような感覚。
小学校時代に戻ったような、周りの人と話を合わせようにもどうにも話が合わない。かといって、変なプライドも邪魔して、バカを演じることも出来なかった。
結果、自暴自棄になり腐ってネットの世界へ入りびたるようになる。
確か始まりは中学生の同級生と一緒に行った秋葉原だったと思う。
私はあんまり詳しくなかったが、中学時代もちょこちょこ名前は知っていたニコニコ動画を見るようになった。入りは東方プロジェクトだった。そこから持ち前の勉強能力でネット用語を吸収するようになった。
当時はYouTubeもなく、ニコニコ動画が一番盛り上がっていたといっても過言ではないと思う。一方で2010年頃までは我が家にはネット環境がなかったため、ガラケーの気の利かないアプリを使って一生懸命見ていたように思う。
高校でも吹奏楽部に入部した。もうその頃の友達とは付き合いはないが、比較的話しやすかったし、同級生との話しづらさも感じなかった。確かネットとか漫画とかそういった文化にも明るい友人だったと思う。
同じ楽器の同級生と付き合ったりもした。彼女のことを思うといまだに苦しい気持ちになる、やっぱりプライドが邪魔して寄り添うことが出来てなかったし、分からないことはちゃんと聞かないといけなかったな。
三年生になり、いよいよ進路を決めないといけない状況に。そんな状況で、どうしてもと頼まれてしまい、例の受験勉強と丸被り文化祭の実行委員になる。友達らしい友達はいない状況だったが、同じクラスの一番よく話す友達と、先述の部活の友達に声をかけ、二人に副部長を依頼する。このうちクラスメイトは第一志望に落ちてしまう、これのせいじゃないと言ってくれたが、そんなわけないし、この事実にはかなり憔悴した。
進学先は看護学部にした。やっぱり祖父母の存在が大きい。卒業後はじいちゃん孝行したいと思っていた父方の祖父は高校二年の時に亡くなってしまった。風呂場でシャワーを出したまま事尽きてしまっていたらしく、生まれて初めて友達の家にお泊りした翌日、校外学習の日に通夜となった。
そんなこともあって、人の役に立つ仕事、高齢者と関われる仕事がいいと思い、看護の道を歩み始める。看護学部がある大学、可能なら公立、ダメでも有名某私立大学を目指すことになった。
学習塾は小学校から通っていたところでお世話になっていた。
ここはもう教室が借りられなくなって、我が家の所有するアパートの一室で授業を受けていた。理由はその先生が大変優秀な先生だったから。教え方は独特だったし、おじいさんだったけど、英語も数学もスラスラ解いてしまう。
そんな先生を怒らせてしまったのが事の発端。上記の実行委員の疲れで授業中ウトウトする機会が増えた。先生は私が本気で頑張れば公立大学に受かることが出来ると踏んでいたが、一生懸命さに欠ける私の態度に喝を入れてくれたわけだ。しかし、私にはこれが応えた。実行委員としての立場、友人に対しての遠慮、加えて受験勉強は自分のキャパシティを超えていたと思う。当時はものが大きく見えたり、逆に小さく見えたり、静かなところで幻聴が聞こえたり、色々限界だったと思う。
今思うと、先生とちゃんと話し合うべきだったけど、当時の私はそんな余裕なく小中高とお世話になった先生と決別した。親に頼みこみ、大手学習塾に入りなおすことに。
この大手学習塾は高校卒業後にバイト先となるため、結果的に移動の選択は悪くなかったと思う。しかし、すで夏休みが終わって9月となっていた。学校では一年生の前期以降は授業も聞かず、全く勉強をしていなかったため、ほとんどの科目を独学でやらないといけない状態であった。
両親には感謝してもしきれないが、受験科目5教科すべての授業を受けさせてくれた。私が通った塾は先生と一対一の個別授業なのでお金がかかる。多分100万円単位だったと思う。
国語と生物は調子が良かった。ほとんど先生から怒られた記憶はない。センターの結果も8割ぐらい採れていたと思う。
しかし、他の科目、英語、数学、化学は全然だった。もともと理数系で数学も化学も得意であったが、やはり学校で学んでなかった時期は全然頭に残っていなかった。結局数Ⅱの分野は本番でも成績は悪かった。
化学はほとんど記憶に残っていない。可もなく不可もなくといった成績だったか。塾の先生が「愚の骨頂」ってよく言っていたことだけ覚えている。
英語は単語を覚えるのが苦手だった。授業の最初に単語テストをするのだが、それがなかなか成績が悪くよく怒鳴られた。「先生」とは言え、学年が一つ上の大学生である。きっと先生自身が一生懸命勉強したことと重なって私が怠けているのが許せなかったのだろう。ただ、5教科それぞれ宿題もあるし、私なりに一生懸命だったんだけどな。英語は7割ぐらい採れた。
センター試験はそんな形で芳しくない結果だった。自己採点の段階で最初に志望した公立大学の合格は難しいと判断して、2次試験は受けに行かなかった。
第二希望の私大は受験科目も少なく、私の学力でも問題ないと判断され、センター試験以降、塾の先生たちの熱量がスーッと引いていくのを感じた。
行きたかった第二志望の大学には無事に合格し、迷走の3年間に終止符を打つこととなる。
大学時代

大学は3年間のうっ憤を晴らすかのように伸び伸びと過ごすことが出来た。
ニコニコ動画も引き続き見ていたが、東方やボカロよりも乗り物系に興味を持つようになった。
今でいうVrogのようなもので、車を運転しながら一人語りするものや、バイクに乗って、あとからゆっくりボイスなどで声を乗っけるものが同時は流行っていた。男子の更衣室に先輩が置いていった「イニシャルD」や車好きの友達がいたこと、自分や周りが免許を取って車に乗り始めたことも影響があったと思う。
今まで私の決めることにはあまり関与してこなかった親が、外泊だけは注意された。伸び伸びしすぎたか。
ネット文化だけが私の娯楽だったのに、それに同調してくれる友人がいたこと、そして新たな遊びとして飲みに行ったり、部活動やサークル活動があったり、学校以外にバイトも楽しかった。
部活はジャズ部とオーケストラ部、そしてフットサル部に所属していた。

適度に緩いジャズ部と、適度に頑張るオケ部、エンジョイ系のフットサルでバランスが取れていたか。
バイトは先述の塾講師と、居酒屋でのホールスタッフ。居酒屋を選んだのは患者対応だったり、夜勤の練習で遅くまで仕事するのに慣れておこうと思ったからだ。これは割と正解だったと思う。酔っ払いの対応で困ったことも少なくなかったが、暴れられるってこともなかった。むしろ褒められることも少なくなかったので、自分の自己肯定感も少しだけ上がったように思う。
看護学部で鬼門は定期試験と実習だと思うが、幸いなことに友人に恵まれたことが勝因だったと思う。
周りがいつの間にか過去問を集めてくれて、テスト前は合宿を企画してくれて、期限があるものはリマインドしてくれる…たぶん一般的な大学では卒業できなかったと思う。
また、「国家試験合格」「医療従事者を志す」という共通目標があるため、家庭環境や考え方が近くて話が通じやすかったと思う。
結果的に私大になったが「学費が高い」というのももしかしたら家庭環境が似通る一因になったのかも知れない。
試験勉強に関しては上記の通り、周りに合わせて自分も置いていかれないよう勉強していたら看護師試験、保健師試験ともに合格。
そのまま卒業と相成った。
社会人
付属の大学病院へエスカレーター方式で就職する。
血液内科、消化器内科、呼吸器内科の部署へ。男性看護師は増えてきているとは言え、まだまだ内科病棟には数が少ない現状がある中で、幸い一人だけ先輩の男性看護師がいたので、新しい環境ではあるものの、伸び伸び生活できたと思う。
お金が増えたことで趣味が充実していった。
今までは家の車を乗っていたが、初めて自分の車を買うことになる。当時フルモデルチェンジされたマツダ デミオ(現Mazda2)である。ディーゼルエンジンでマニュアルという独身貴族仕様のコンパクトカーである。5年乗ったが、良い車であった。
次にキャンプにハマり、給料はほとんどキャンプ道具に消えていった。最初から良いものを買えばいいものの、コスパを求めて安いパチモンのようなキャンプ道具ばかり買っていたように思う。
続いて昔憧れていた実況車載動画やキャンプツーリングをすべく、アクションカムを買ったり、バイクを買ったり。ヤマハのWR250Rというバイクで排ガス規制の影響で現在廃盤だが、これも良いバイクだった。
しまいにはデミオでは荷物が積みきれなくなり、独り身の癖にキャンプ用ミニバンを購入する。マツダMPVだ。
当時は安かったが、現在は状態の良いものはプレミア価格になっているかもしれない。友達とキャンプのついでに長野まで買いに行った記憶がある。
仕事面は正直できない部類だったと思う。患者に実害が起こるようなミスはしないが、物を片付け忘れる、書類に不備があるといったミスは日常茶飯事だった。「じょぶが通ったあとはものが置いてあるから分かる」なんて言われたこともある。
仕事以外に病気に対する疾患の勉強や、検査、治療の勉強、私が配属した部署は抗がん剤の治療も多く行っていたので、とにかく勉強することが多いように感じた。今思うとはじめのうちに一生懸命やっておけばよかったとも思うが、ほどほどに勉強していたように思う。
5年目ぐらいになると、師長や主任が不在時には責任者代理ぐらいの立場を任されるようになる。私が優秀というわけではなく、どの部署もそんな感じだと思う。この頃に一度事件があり、忙しい時間帯にクレーマー気質の患者に後輩が捕まってしまい、日勤前の準備で早めに来ていた私が対応を変わることになった。責任者がいない時間で埒が明かず、その時間帯の病院全体の責任者である「時間外師長」に連絡をしたところ、向こうも忙しいと相手にしてもらえなかった。私も自分の業務がある中で後輩を助けようと対応を変わったものの、上司のあまりに適当な対応にあっけにとられてしまった。この出来事を機に、上司に対しては一生懸命やっても仕方がないこともあることを学んだ。
大学病院なので、ある程度は自己研鑽に努めなくてはならないため、上司に文句を言われない程度に勉強に励むようになった。また、この頃から同期はどんどん辞めていき、頼みの男性先輩も異動となってしまった。ここからあまり目標がない日々を過ごすこととなる。
結婚
2018年頃、再びゴールを見失う。
このままただ時間を過ごすだけではよくないと考え、結婚を見据えた伴侶を探し始めるが、なかなかそこまで先を考えているお相手に出会えず。
リアルの出会いは諦め、当時流行っていたマッチングアプリをやってみる。
ここで色々な人と出会って知見を増やすのも手だったが、初めてリアルで会って見たいと思った人と結婚することになる。
決め手はお互いに「結婚」と「子育て」をやりたいと考えていたこと。また、相手の親御さんも感じの良い人であったこと。宗教や借金が無ければ、女性なんて大差ないだろうと当時は考えていたため、このまま見つかるとも限らない別の女性を探して時間を浪費するより、目の前の私と結婚したいと言ってくれている女性と結婚したほうが良いと考えた。
2020年頃、結婚した。現在はやらない夫婦も増えているが、私たちは両親・恩師・知人を呼んで結婚式を挙げることが出来た。その後まもなく、新型コロナウイルスが猛威を振るい世間は「コロナ禍」となった。医療の現場は辟易していたため、家に帰ると隣に妻がいてくれることは寂しがりの私にとっては救いとなった。
結果的に2児に恵まれ、妻も仕事復帰してくれているため、金銭的にもゆとりがある毎日を送ることが出来ている。
結婚後:発達障害との出会い
私自身、自分はADHDだと思っていた。
人が出来ることが出来ない、片付けが出来ない(正確には出来るけど、すぐに散らかってしまう)、物覚えが悪い、不器用などなど。
自己肯定感は低いし、人の失敗を見ると「なぜ俺に出来ることが出来ないんだろう」と考える始末。
結婚生活がしばらくして、お互い新婚熱が冷めると不和が起きるようになってきた。先述の通り、世間はコロナ禍、私は病院勤務であり妻は妊婦、コロナに感染したら普通分娩は出来なくなってしまうということもあり、家庭内の雰囲気は次第にピリピリしてきた。
違う家庭で育ったため、家事一つにしてもやり方が違うのは仕方がないことだが、妻が私の人権否定とも取れるような形で一挙手一投足を否定するようになった。妻も環境の変化や妊娠によるホルモンの変化で普段通りではなかったように思うが、それにしてもツラい日々であった。幸い、過去の人生で女性と関わる時間が長かったため、受け流して耐えることができた。
そして精神安定のため妻への恨み節だったり、疑問点、矛盾点などを書き出していくとある時、
「あれ、これって何か障害があるんじゃないか」と気づくことがあった。
妻へ話すと、どうやら妻も思うことがあったらしく、精神科クリニックに受診するとあっさり「ADHD傾向のあるASD」という診断結果が出た。
私の母方の祖母、母、妹もそういった傾向があり、妹に至っては「ASD(当時はアスペルガー)」と診断されている。
そのため私自身も何かしらあるのだろうと思っていたが、発達障害について調べれば調べるほど、自分は定型発達(健常者)であると分かる。これは自分にとってはツラかった。
自分が生きづらさを感じていたのは障害のせいなんだ!と救われている人が身近にいる分、自分は見放されたような気分に陥った。
一方で、診断の有り無しで変わるのは、公的支援の有無のみであることも分かった。
私は学生時代も就職後も他人に助けを受けることはほとんど無かった。
その理由は幸運にも周りに恵まれていたこともあったし、自分自身で何とかする力もあったことに他ならないと気づいた。
もし自分に病名がつかないのなら、今まで通り、自分の力でどうにか対処していけば良いじゃないか。
これは一種諦めの感情でもあるが、逆に甘えがなくなり、決心がついたということも出来ると思う。
最近:特性の理解と資産形成
身近に資産形成に詳しい友人がいたこともあり、結婚した頃から資産形成を始めた。
妻も金銭面にはうるさかったし、投資という言葉にはネガティブな印象を持っていた。
私は妻が理解しやすいよう論理的に仕組みを説明し、妻の金銭には手を付けず、まずは自分の余剰金を使って運用を始めた。そして視覚的に理解できるよう、我が家の資産額を毎月ノートで管理するようにした。
コロナの相場も味方し、家族に借金して結婚式を挙げた1年後には資産500万円、2年後1200万円ほどに増やすことが出来た。妻もへそくりを投資に回してくれてたり、協力的になってくれた。
現在資産3000万円。順調すぎてそろそろ暴落が怖いが、資産を着実に増やせていると思う。
特性の理解というのは妻だけでなく、自己理解にもつながると思っている。
人に何かを教えられるほど知能が高いわけではないが、自分を客観的に捉えることが出来ている。
一方で色々なことを同時に考えることは苦手である。これは発達・臨床心理学的には「ワーキングメモリが少ない」ことが原因といえるらしい。
また、AIとの対話でも自己理解を進めることが出来ているように感じる。
こういった日々の気づきを残していくことが、このブログを運営する一番の目的だと感じている。
いつか、私がだれかに何か伝えたいとき、子供たちに私を説明するとき、名刺代わりにこのブログを読んでもらいたいと考える。
現在2児の父。
子どもとの関わりの中で、自分の思っていることを人に理解してもらうことが自身の志向であるのではないかと気づく。
このブログを通じて、私の情報発信がだれかに届けば本望である。
今後私がアイデンティティを失った際に、高校時代のように腐らないためにも、一生懸命更新していきたい。

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